昭和50年03月20日 朝の御理解
御理解 第82節
「大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝てはおられぬ。どこの太郎やら次郎やら解らぬ様になろうぞ。」
教祖の神様の人柄というか、生きられ方というかそういう徹底した物の、思い方考え方が、此の様な御理解をなさったんだろうと思います。上納を例えばなさるでも、例えば十俵すれば良いのに、今年は豊作で良く取れたからと言うて、添えてそれに普通以上の、決まり以上の上納をなさったり、ね。今日は村の言わば休み日だから皆んなは、休んでおる様な時でも外へ出て道普請などをなさったり、それを人が通ると天道様は、お働き通しにお働き下さってあるのだから。
自分達が遊んでおっては勿体ないと言う様な考え方です。この事なんかでも、もう是は大変な事だと思うのです。そういう思い方が出来ると言う事ですよね。成程天地の天道様と言う事は、言わば天地のお働きでしょうね。それこそそれを学問的にでも、天地の働きを解らせて頂いたら、唯ただ驚くばかりの働きを、天地がなさっておられる。そういう理屈は例えば解ってお出でられたとは思われない。
のにも係らず唯天道様が、日夜を通してお働き通しだ働いて下さっておるのに、今日は休みだからというて、のうのうとしてはおられないと言うて、日頃は出来ないいろんな、道普請なんかに言わば奉仕をされた。奉仕をされたんでしょうね、やっぱり。唯働かれたというだけではないですね。そう言う様なものが、どうしてそう言う事が出来られただろうかと。もうそら人間離れしておられたと言えば、それまでなんですけれど。出来るだけ税金が、もうそれこそインチキをしてでも少なく納めたり。
多いよりも少ないが良い。増してや決まっておる以上に持って行くなんて、こんな滑稽な言わば馬鹿げた事はない。是がいうならば普通の者の考え方だろうとこう思う。けれども教祖様の場合は、成程体はちびるものではないから働くが良いと仰る様な、徹底した生き方というか考え方と言う物が、何時どの様な風にして、そう言う物が生まれ付きといやそれまでだけれども。
言わば天地の働きに対する、おかげの頂けれる心の状態と言う物を、備えておられたという感じがする。私共はおかげ頂きたい、おかげ頂きたいと言うて、天地の心を心として解りたい。そして言わば天地日月の心になる事肝要と仰せられるから。もう一生懸命精進し努力しなければ解らない。もうそりゃ確かに天地日月の心になる事肝要。天地の心になったら、そうしなければおられないだろう、解ったら。
それこそ天道様は四六時中お働き通しなんだから。自分達がのうのうと休んでおっては天道様に対して申し訳がないと。それを普通の人から見たら。なぁにもならぬ事誰も金一銭やる訳でもないのに、馬鹿らしい事だと。本当に世の中にゃ、まぁ奇特な人があればあるもんじゃと。十俵納めりゃ良いとば十一俵、例えば納めて見たりと、例えば本当に私共でも聞いてびっくりする様な、ほんなら心の状態と言う物がです。
教祖様に備わっておられたのか、又その後のいろんな働き、状況の中から、体得されたのか解らんのだけれども。私共は信心をして、何事にも信心になれよと言われるから。それに一生懸命、努めて来た。天地日月の心になる事肝要と仰せられるから。天の心とは地の心とはと愈々、追及して。成程天の心が解り、地の心が解れば、日月の心が解れば解る程、ほんならそうしなければ、いけない事が解って来る。
ほんなら解っても、中々実行出来んのです。ですけれども、解ってそこのおかげを頂こうとする、精進努力をしなければ出来ない所を、教祖様はまぁだそういう、一介のお百姓であった。まぁだ地主と言うよりも小作の方が多いかったといった様な時代にです。既にその上納の問題と言い、お休みの日に言わば、働きに出られるといいです。もう天地の心を知った者の様な、働きを表しておられると言う事です。天地日月の心を知った者と同じ働きを、表しておられると言う事です。
そこに神様が言わば現れて下さるおかげが頂けられたんだとこう思います。教祖の信心を表すとか、ね。お道の信心を表すと言うけれども、ね。矢張り現れて下さる神様が現れて下さる私は元というのがです。教祖様の生きられ方の中から感じられます。教祖様の物の思い方、いうなら考えられ方。それがそのまま働きの上に表しておられる。そういう考え方やら働きはです。もう天地日月の心になったと同じですから神様が現れなさった。そんな難しい事聞いたり勉強して解られたのじゃないという所にです。
私は教祖様の所謂とてもとても唯人ではなかったと言う事を改めて感じます。だから例えば、この八十二節に現れて来る様な御理解を、ね。もう言うならばご自分が淡々としてなさっておられる、当たり前の事としてなさっておられる。いやそれには少しその唯税金を納めるだけじゃなくて、多く儲けた時には多く払わなという様なその生き方をです。それがそのまま天地日月の心であり、所謂天道様の働きと同じ働きであり。
天道様の心を解って、奉仕に表しておられる、教祖様のご信心態度と言う物をです。私共は教祖の御教えによって、解らせて頂く訳であります。だから解っただけじゃいかん。やっぱり私度もがそういう、行の上に表さなければです、神様が現れては下さらんのです。どうぞ元気になります様に、どうぞ金儲けが出来ます様に、いろんな難儀をどうぞ、おかげ頂きます様に。成程お願はせんで良かろう。もう神様が健康を約束して下さる。貧乏等はとても神様が、なさしはしなさらない。
その当時のお百姓でです。例えば小作から自作農になるだけでも、大変なご努力であっただろうと思うけども努力だけではない。神様がそこに現れて御座る働きを、まぁだ教祖金光大神、金光様と言う時じゃない。一介のお百姓である時にです。神様が働いて現れて下さる働きを受けておられたから、村内でももう上の方から数えられる程しの分限者。言うなら物持ちになっておられる。唯働きだされたと言う事だけではない。もう神様が既に、そこに現れて下さってある。
是はもう本当に不思議と思う位ですね。当時のお百姓さんが、例えば一反でもいみらかして、二反でも増やして以降と言う事は、大変な事だろうと思うんです。それは教祖様の働きにもよる事だけれども、その働きの、内容と言う物がです。所謂天地日月の心であり、同時に天道様の心を解った者でなからなければ出来ない事をです。解っておられたか解っておられなかったかは、知らんけれども。それを実際に現わしておられる所に、天地の神様の働きをです。
言うなら財産なら財産の上に表し現れて、神様が御座ったという風に思うです。そこを私共は教祖の神様が、言うならば神様教祖金光様の、御あられ方を私共が身に付けて行くと言う事はです。とてもとてもです。それを身に付けるという事は出来ない。それはどう言う事かと言うとです。教祖様は人から教わって、こうする事が道理だ、本当だと言う事が、道理が解られてなされたのじゃない。
そう言う物がもう天地の心を心としての生きられ方と言う物を、訳が解る解らんは別としてです。それを言うなら天地日月の心をお生活の上に現わしておられた。私共はですなら教えを頂いてです、私共はそれをまぁ言うならば守らせて頂くと言う事になる訳です。そこに本当に言うならば天地程の違いというか、開きをね感じます教祖様の教えて下さる事を、一言でも本気で守らせて頂くと言う事が天地日月の心に叶う。
お天道様のお心に叶う生き方になるのですから、やっぱりどうでも教祖様の御教えを、本気で行じてそれを自分の、血に肉にして行く以外にはない様です。そして始めてです八十二節という様な所が解るのじゃないでしょうか。誤魔化して出来るだけ値切って、こぎったり。とまぁ、今の私共の時点ではです。そうしなければ立ち行かない感じです。そこでですね。私共がそういう言うならば、間違った考え方から、起きて来る所の言うならば、欠損という様な事の場合です。
それを本当に潔く諦めるのではなくてです。神様の働きとして頂けれる所迄位は、頂きたいと思うです。昨日久し振りで鹿児島の、女西郷さんと言われる方が、お参りをされた。綾部さんと本郷のご信者さんだそうですが、三人でお参りをして参りました。私はこの人は本当に、矢張りまっあぁた、太閤さんのごたるのち言うて、私が話した事でした。もう自分の思うた事は間違いなし。こら儲かると思うたら絶対儲かると言う、一つの確信に満ちた生き方を、まぁしておられる訳です。
この頃からも言わば、脱税で沢山取られなさった。何か新聞に出とったんですかね。兎に角何十億ですもん。それから久留米の、ある商人の方に、八千五百万貸しておられる。それをここに参って見えた時に、何かまぁその時に、例えばあとまぁ一千万円貸してくれと言う事じゃったけん、貸して良かろうかと言う事でした。七千五百万はもうすでに貸してあった訳です。所が店がどうも思わしくないから、言うなら貸そうごとないけれども、しゃっち貸してくれと言うからち言う事だったから。
そら貸してあげられても良いでしょうと私がこう言うた。所がそれもやっぱり先日新聞に載っとったそうですね。○○茶店というお茶屋さんです。そこが二億からの欠損で倒産したんだそうです。それが新聞に載っとったと言う事を、昨日聞いたんですけれども。だからころっと引っ掛ってしもうちゃる。所がですね先生、あなたがあげん言うたけん、貸したばってん引っ掛ったち言う様な事も、是から先でも言われないですね。それは次に又儲かる元になるち。
私は本当に成程、女西郷さんと言われる程しあると思うですね。そりゃもう誤魔化しに誤魔化して、それこそ沢山な脱税なんかもしておられるから。けどもそれはガバット、やっぱ罰金を納めておられるけれども。それを一つも苦に病んでおられない。そしてから昨日又、ある日田の方に持っておられる、お土地の売買の事について、又それこそほんなら此処でお取次を頂いて、ころっとほんなら私にお願をしたばっかりに、あの一千万又コロッと損された訳です。
それでも矢張り今度の日田の方の土地の問題なんかは、どうしたなら良かろうかというてお伺いをしてる。ほんなら合楽の先生に聞いてから、話を決めようと腹を決めようと言うので、昨日はお参りされたんです。もう本当にその淡々としておられる方ですね。恨みがましいものがない。成程おかげ頂く人は違う。そこで私共は今日のまぁ八十二節の中からです。教祖様がもって生まれておられたとしか思われない。
例えば天道様は働き通しに働いておられるのだから、ほんなら天道様の働きは、天地の働きと言う物はです。それこそ学問的に言うたら、もう本当に大変な働きをなさっておられる事を、勉強して解っておられるとも思われんのにです。それをなし切っておられると言う所です。お休みだからと言うて、休んでおられん。天道様は働き通しに働いておられるのだから、相すまんと言うのである。十俵納めりゃ良いのだけれども、今年はよう豊作で取れたからというていうならば、十一俵納めておられるのである。
それはそのままがもう天地日月の心である。神恩報謝の現れである。それを信心が別に手厚う出来ておられた、神様からお知らせを頂いて、そうなさったのではなくてです。それが出来ておられた所に、私共がです結局私共と天地ほどの開きを、教祖様の上に感じるのですけれども。そこでほんならその教祖様が、今度は教えて下さる事を、私共は学ばして貰う。教えて下さる事を私共が守らして貰うてです。
それが自分の血に肉になって行く様なおかげを頂こうと、一生懸命努力しておってもさぁ愈々ほんなら、税金だという様な時には、税金だけの事じゃありませんけれども。出来るだけ少なく出したが、出来るだけ値切ってでも、こぎってからでもという様なものが離れないという所にです。私共の時点ではそうですから、仕方がないからせめてほんなら、罰金を納めなければならんとか。
又は要らん事にお金が要ると言った様な時にはです。もうそれに着いて行こうごたると言う様な気持ではなくて、それこそおなご西郷さんじゃないですけれども、淡々としていけれる様な心持だけ位は作って行きたいですね。どうせ例えば罰金なら罰金ば、納めんならんとば、着いて行こうごたる気持ちじゃなくてです。例えばそういう気持ちがなからなければ、いうならお取次を頂いて、合楽の先生がまぁ一千万貸してくれと言いよるが、貸してやっても良いですよと。そしたらころっと損した。
私は丁度裏におりましたが、見えとると言うので、応接間で待っとって貰ったから、裏からこう来るまでにです。あのずっと廊下を歩きながら、来る道々頂く事がね。近視眼的なものの見方、考え方をするなという意味の事を頂いたんです。そして私が神様にお願をして、頂く事はです。例えばその久留米に引っかかっておられると言う、八千五百万でももう是は必ず、おかげになるです結果的には。だからほんな今親先生が、あげん言うたけん、引っかかったてんなんてんて言う事は、近視眼的な見方です。
目の前の事、ほんの目先の事だけしか考えてないのです。だからおかげになる。そのもう淡々としたね、外しかたというか、淡々としたその事に対する、はぁ神様にお願いしとったばってん、帰って損したてんなんてんち言う様なものが、ない所にです。次のおかげを又呼ぶ働きと言う物が出来るのじゃないでしょうかね。だからせめて私共は、其処ん所位出来る様なおかげを頂きたい。どうせ出さんならんものなら、ね。着いて行こうごたる気持では、もう本当に向こうへ行ってしまいます。
帰って来ないまぁ有難くと言いたい所ですけれども。それこそお取り払いを頂いて、有難いと言う位な気持ちでです。私共は損もしたり出しもしたり、そういう気持ちを作って行かなければいけません。そして今年は思い以上に、いうなら売上なら売り上げで、儲かったから今頃、例えば税金や家は、ようけ儲かったから、もうちっと添えときますち言うたっちゃ。税務署がそれを取ろうとはしますまいけどもです。
そういう心を作っていく。教祖の御教えを頂いておると、そういう言うならば物欲でも金銭欲でも、同じ事ですけれども。淡々とした物がそこから、身に付いて来る様なおかげを頂いたら、又次のおかげを呼ぶ事にもなるのです。今日は八十二節。こういう御理解を、言わば説いて聞かせて下さる、教祖様のそのお心の状態という様なものが、とても通常人で出来る事ではない。そこからこの御教えは下さっておるんだと言った様な事を今日は聞いて頂きましたね。